第5回 日本の新卒採用
■問い
世の中の成長や収益モデルの構造が変化した今、日本の採用戦略はこれまで通り、新卒一括採用で良いのでしょうか?
■答え
もし、その企業が変革を唱えているのであれば、全体、或いは一部に対しては今の給与規定を無視した採用戦略や条件を提示してでも「尖った人材」を確保することが望ましいです。ただし、その必要性に迫られている大企業では労働組合が強く、仮にそのような取り組みを行ったとしたら組合や既存の社員からの反発を受け、実際は取り組みを変化できずにいます。
■解説
今回は、日本企業の新入社員採用戦略についてコメントします。まずは、以下の記事を参考下さい。
————–2018年2月28日朝刊 日経新聞より抜粋————–
一律だった新卒社員の待遇を見直す企業が増えている。フリーマーケットアプリ大手のメルカリ(東京・港)はインターンシップ(就業体験)の実績を入社後の年収に反映させる制度を導入する。人材の獲得競争が激しくなるなか、3月1日から本格スタートする就職活動でも、実力に応じた柔軟な待遇をアピールする企業が増えそうだ。
——————————–ここまで———————————-
ようやく国内でも新入社員の採用戦略についてゼロベースで見直しが始まりました。そもそも国内における新卒一括採用の起源は明治時代。管理職や事務職などの採用方法として一部企業に取り入れられたのが始まりです。それから戦後の世界恐慌の影響から学生の就職難が社会問題に発展し、1929年に学生の定期採用についての協定が議論されています。
日本の新卒一括採用は「終身雇用」「年功序列」「企業別組合」の3本柱が前提で構成された日本的な雇用システムです。終身雇用が前提だった日本企業は新卒一括採用をとることで長期的な教育が可能になり、その成果に応えるために年功序列が必要とされました。
従って、新卒を唯一の応募条件にして未経験者を広く採用をする手法は、職種や業種に対して特定のスキルを前提とした応募条件をもつ海外企業からすると、理解に苦しむ手法でした。その一方で、「時間をかけて育成」する日本の考え方としては、理にかなった採用方法だったのです。
しかし、現在はどうでしょうか。
国内経済は成熟しています。多くの伝統的な業界や企業は10年も20年も前のビジネスモデルで継続的に収益を上げています。一方で市場は年々縮小を続け、新しい変化が常に求められる環境になっています。
ところが、その変化の方向性に対しては絶対の「解」が無く、何が正しいのかの判断が極めて難しい時代です。
こんな先が見通せない世界に対しては、平均的な能力を持つ集団を抱えるよりも、極端に尖った人材や全く違う視点でモノゴトを捉える人材を少数抱えたほうが、組織の方向性を変えるには適しているのです。
さらに、新卒一括採用がフィットした当時と、経営環境は大きく異なっています。
特に情報と物流です。昔は自社で全ての設備を抱えて規模を大きくすることが、成功要因の1つとされていました。しかし2007年頃から始まったスマートテクノロジーの急速な発展と共に、一部の尖った機能を持つ組織を除き、外部やAIを活用することで収益を上げることが可能になってきたのです。
ハードを自社で持ち、各拠点や支社毎にハードを投資する必要もありました。それも今では、ソフトウェアの実態はクラウド上にあり、誰もが汎用で持つことができるスマートデバイスにアプリをダウンロードすることで、自由に、安価に、相当のシステムを活用することが可能になっています。
例をあげましょう。
複数の拠点をもつ、ある歯科医院は、拠点ごとにレセプトコンピュータを設置する必要があったのですが、今ではレセプトコンピュー自体をクラウド上におき、ネットワークでスマートデバイスからアクセスすることを可能にしています。従ってハードの投資は不要で、汎用的なデバイスを使い、後は使用状況に応じて変動的にライセンスを増やすだけで、たとえ遠隔地にある医院でもレセプトを管理することが可能になっています。
このように、明らかに世の中の構造が変わってしまっているのです。
これまで、採用に関しては、さして変化がありませんでした。
大企業の採用に関していえば、2000年当時も現在も、少しは変わっているように見えますが、その中身に大きな変化はありません。相変わらず母校の先輩社員が大学を訪問して、自社にとってめぼしい学生を見つけてはエントリーシート数を競いあっています。就職担当者も会社の戦略に合致する人材戦略を持つことなく、昔から通り一遍の採用人数という「KPI」に翻弄され、とにかく偏差値、大学、人柄が優秀な学生の証であると妄想して、闇雲に採用活動を続けているのが実態です。
そして、大量採用の後の人材教育にも変化はありません。
超優秀な人材も、普通の人材も、一括して集団教育を施しています。その結果、社員の士気を低下させ、超優秀な社員は数ヶ月でその組織に見切りをつけて去っていくのです。
ここで、OECDの資料を見てみましょう。
1995年当時の名目賃金を100とした場合、日本は2015年現在では100を割っている現状です。従って賃金そのものは上昇どころか下がっているということです。一方、米国やユーロ圏の企業は190前後の数値を示しており、当時と比較して給与が倍になっていることが分かります。
世間では、一生懸命に「生産性向上」を訴えています。しかし多くの企業は、そもそもの仕事の成果に対しての定義が曖昧なままです。挙げ句の果てには、労働時間一辺倒で、労働の質を測る始末です。
生産性とは、労働の成果に対して、どの程度の「入力」(時間、カネ、人、モノ)をしたかで決まってきます。つまり、「出力」である成果と、「入力」の両方を定義して、初めて測ることができるのです。それにも関わらず、多くは「入力」の時間を唯一の変数として考えているようです。
日本生産性本部の資料によると、日本人一人あたりの労働生産性は7.4万ドルです。ギリシャですら8万ドルを示しており、1位のアイルランドは15.4万ドル、米国は12.1万ドルと差があります。
実は、1995年前後より日本の成長はストップしています。構造的な変化と技術的な変化が急激なスピードでやってきて、当時貧しかった国がどんどん成長を遂げているからです。そういう状況にありながら、人材に対してのアプローチ方法が大きく変わらないというのは苦しいですね。
たとえばIT関連の仕事は、労働生産性の質が全く異なります。ですから適切に仕事の成果を規定できれば、給与差を10倍以上つけても会社としては問題ありません。逆に、その給与差が無ければ、優秀な社員を確保することすら難しくなるのです。
ところが、そうは言っても、今の大企業がその取り組みを実践することは難しいでしょう。本体の人事評価そのものを見直す必要に迫られるからです。長年働いた方々の給与よりも、新入社員の給与がいきなり高い状態が出来てしまうと、他の社員に対しての塩梅が悪いのです。
ちなみに、日本の大手企業の大学新卒の1年目の平均月収は20万円弱。これは私が2000年に新入社員だった頃と、大きく変わりません。ところが中国のスマフォ会社のファーウェイは40万円。深センの優秀なエンジニアは80万円、アマゾンの新規採用5万人の平均は95万円(年収で1,130万円)、インドの優秀なエンジニアは125万円。グーグルやマイクロソフトの初任給は160万円と、目を疑うような金額です。
これら金額は、日本のサラリーマンには理解できないことでしょう。しかし、真に尖った人材や、グローバルで突き抜けて戦うポテンシャルに対して支払う金額としては、これくらいが当たり前になっているのです。