■人生最大の「モテキ」!? ~大分パルコ店長時代
本来「モテキ」とは「異性にモテる時期」のことですが(確かに単身赴任の40代前半の若い店長として、スタッフやテナントの女性店員からはそれなりに関心を持たれましたが)今回の話は大分の様々な分野の方々からいろいろラブコールをいただき、東京にいる時以上に「モテた時期」が大分パルコ店長時代(2004~2006年)でした、という話。
2011年、大分パルコの歴史に幕
緊急事態宣言下の浅草・雷門
先ずは就任早々、大分市長の肝入りで集められた「市内活性化委員会」(正式名称は忘れました)の分科会に、建築家・青木茂氏、大分大学・姫野由香氏他に混じって私にも白羽の矢が立ち、当時深刻化していた大分市中(特に駅前周辺)の空洞化解消案をまとめて市長に直接提言するという中々ハードルの高いテーマに取り組みました。
駅前の一等地で商売をしているパルコにとっても極めて重要な課題だったので、通常業務は課長に任せて(?)真剣に取り組みました。ある時は府内町の居酒屋で商店街の人達と酒を飲みながら、ある時は市内の交通インフラを一手に担う大分交通(バス・タクシー)の役員の方々に対峙しながら…。分科会メンバーで出した結論は「歩行者天国の実施」という、今思うと長閑な感じもしますが、それ以外に打つ手無しだったのも事実。
そして再三の要望(説得)の末に実現したのは「片側だけのホコ天」という、全国でも類を見ない、極めてトリッキーかつリスキーな開催方法。それでも「やらないよりは…」ということで、パルコ・トキハ・フォーラス等大型商業施設と商店街が手を組んでなんとか実施に漕ぎつけました。
この時の苦労が実を結んでか、(十数年後の)今では両車線開放でホコ天が随時開催されているとのこと。地元の方々に初めて認められたなぁ、と実感したことを今でも思い出します(余談ですが、大分交通との厳しい折衝の後、商店街の一人から『柴田店長、市長選に出馬しないかなぁ』とポツリと言われたことが今でも耳に残っています‼)
次にモテたのは店長3年目(最終年)に天下の「大分合同新聞」からコラムの連載を頼まれたこと。
それまでにも度々大分合同新聞には取材をしていただき、あまりの露出ぶりに本社(副社長)から「目立ち過ぎだ! ちょっとは控えなさい!」と怒られた(実際は褒められた)くらい。連載は隔週夕刊に「温故知新・新~デジカメ日記」という、中々興味をそそられるタイトルでスタートしました。テーマはもちろん自由。大分の隠れグルメの案内から東京からニューヨークまで流行っている(と勝手に感じている)モノ・コトを、読者の興味等お構いなしで書いていました。
でも今読み返してみると、15年前とは思えない時代を先読みした題材のオンパレード(自画自賛でスミマセン)。「CDの紙ジャケットブーム到来」「謎の動物カピバラ大人気」「NYで大流行、男子が外で編み物に夢中(大分パルコでも開催!)」「レトルト食品の進化」等々。担当の方から「読者の評判も上々(出版化の話もちょっと出たくらい…)」と言われて調子に乗ったところで、大分パルコ3年間の勤務終了。それに合わせて連載も終了になりました。でも地元で最も読まれている新聞というメディアに文章を掲載することの楽しさと、責任を身をもって体験することができました。
そして最後のモテキは広瀬勝貞・大分県知事より「かぼす大使」を拝命し、「執行役渋谷パルコ店長」として東京・渋谷に凱旋(?)することができたこと。
あらためて大分パルコ店長時代が、人生最大のモテキだったと思う、今日このごろです。
ちなみに『モテキ』は漫画の原作でドラマ化、映画化(主演 森山未來・長澤まさみ他)されています。
大分パルコ店長就任時に掲載された大分合同新聞
かぼす大使就任で頂いた硝子の置物(題字 高山辰雄)