私が初めてデジタルカメラを手に入れたのは1994年のこと。

当時、まだアップルコンピュータと呼ばれていた現アップル(Apple)が発売していたクイックテイク100(QuickTake 100)という機種だ。いまも自宅の書棚に置かれている、その大きなデジカメは、35万画素で撮影できる枚数は30枚程度。撮影したあとマッキントッシュに接続しないと画像は見られなかった。いまから考えると30万画素で30枚だからお遊びみたいなものだ。

それから20年。いまコンパクトデジカメはスマートフォンに置き換えられ、ほとんどの人が毎日デジカメを持ち歩いている。そして気に入ったもの、おもしろいものがあればパシャパシャと撮影していく。

デジカメ登場以前、カメラと言えばフィルムカメラだった。12~36枚撮りのフィルムを購入し、カメラ本体に充填して写真を撮影した。撮影できる枚数が限られているので、プロのカメラマン以外パシャパシャと撮影するわけにはいかない。旅行や記念日のみの“非日常”を記録するものであった。

加えて撮影後はカメラ店で現像し、紙に焼いてもらわなければならなかった。値段もそう安いものでもなく、だからこそ被写体を吟味し、失敗のないように撮影時点から気を遣っていた。できあがった写真は丁寧にアルバムに貼り、書棚に収めていたものだ。

しかしいまはスマートフォンも進化し、容量を気にすることなく撮影ができる。しかも性能がいいのでだれでも良い写真が撮れる。撮影した写真はフェイスブックやツィッターでアップするか、パソコンに保存しておしまい。必要なときにだけプリントはするが友人に渡すのも、通常はそのままデジタルデータを渡すのみだ。

そう、モバイルネイティブにとって、写真を撮ることは非日常的なことではなく“日常”なのだ。被写体を吟味する必要もなく、できあがった写真から選び抜くこともなく、データはクラウドに保存する。

私は紙メディアの編集者でもあるが、紙の場合、ページ数に限りがあるのでベストショットを選ぶという作業が発生する。人物であれば表情を選び、風景でも光の周り具合、露出など、さまざまな要素で紙面に掲載する写真を選び抜く。

ところがブログなどのネットメディアでは、極論を言えば、何枚でも画像を掲載できる。また、間違って掲載してもすぐに差し替えることができる。だから必要以上に写真を吟味する必要がない。

現状、写真はネットにあふれかえっている。しかしそのなかで良い写真はどのくらいあるのだろうか。あったとしてもそれを探しだし、選ぶことは至難のワザだ。そもそもそうする必要がないのかもしれない。それは文章も同じこと。第4回で「筋肉質の文章が少なくなっている」と書いたが、ネットから上手な文章を探し出すのが難しくなっている。ネット上で価値あるものに出合う可能性は低いと言わざるをえない。

いま、良い写真、良い文章をセレクトしていくという行為がかぎりなく少なくなくなっている。選び抜くという行為が必要ないのであれば、そのための審美眼も必要ない。であれば、経験により審美眼が磨かれるということがなくなっていくだろう。

カメラマンが食べていけなくなっていると言われて久しい。また作家が食べていくのも難しいと言われる。モバイルネイティブ世代に良質の写真や文章は必要ないのだろうか。

いや、そんなことはない。そう信じたいが、太古の昔から生物の持つ機能で使用されないものは退化していくと決まっている。であれば、磨くべき審美眼そのものが退化していくかもしれない。

レガシーに戻れという気もないが、であれば、そうならない仕組み、写真や文章を選び抜かなければ、その先に行けないというような仕組みを作ることも私たち世代が用意しなければならないのではなかろうか。

profile

田代 真人 氏
(たしろ・まさと)

編集者・ジャーナリスト。(株)メディア・ナレッジ代表。駒沢女子大学、桜美林大学非常勤講師。1986年九州大学卒業後、朝日新聞社、学習研究社、ダイヤモンド社と活躍の場を変え、女性誌からビジネス誌まで幅広く取材・編集。著書に『電子書籍元年』(インプレスジャパン)、構成作に『もし小泉進次郎がフリードマンの『資本主義と自由』を読んだら』(日経BP社)がある。