おおいた「駅ビル vs まちなか」 の一部始終? #01
何を書いても新型コロナ絡みになってしまいがちな今日このごろ。第二波も押し寄せ、まちなかも元気を取り戻し損ねたままの現状だけど、ちょびっとずつ、ちょびっとずつ前には進んでる気配はあり。
コロナの話題から今回は敢えて趣を変え、5年前に大分駅ビル「アミュプラザおおいた」が進出して来た前後から、少なくとも大分中心市街地が賑わいを取り戻しつつあった昨年あたりまでの振り返りをしてみよう思う。
いましておかないと忘れてしまいそうだし。
あくまでも商店街のひとりの人間から見た側面で、事実や真相には至らないところもあろうかと思うが、その辺はご容赦願いたい。
昭和に遡ると、大分市は昭和40年代から平成の始めにかけて 「新産業都市の優等生」として第二次産業が牽引車となり、右肩上がりの発展を遂げていた。
都町という新しい歓楽街が生まれ、中心街には長崎屋・ジャスコ・ニチイ・ダイエー・西友(後にPARCO)という中央資本の大型総合スーパーが相次いで進出。そして、その中心にトキハが鎮座するという一大商業ゾーンが形成され、一時は 「日本一の商業激戦区」とまで呼ばれていた。
いまの若い世代にはピンとこないだろうけど、週末のトキハ前のスクランブル交差点周辺など、大袈裟に言うと渋谷のスクランブル交差点のような熱気が迸っていた。
(余談だが、OBSラジオの番組から生まれた「♪トーキーハ! トキハはジャスコの斜めまえ~」という沢田研二の『TOKIO』のシュールな替え歌が中高生の間で一世を風靡するほど)
大分の子どもたちは週末にトキハを始めとする中心街にお出かけするのが一大行事で、その行動は「おまちにいく」と表現されていた。男の子はハイソックスにサスペンダー付きの半ズボンと言う出で立ちが暗黙のドレスコードで、さながら毎週末が七五三な感じだった(笑)。
しかし、その後の社会における基幹産業の変化や、モータリゼーション社会への傾斜に伴う郊外の大型商業施設への消費者の流出等、時代の流れと共にひとつ、そしてまたひとつと華やかに進出したショッピングセンターは消えて行き、平成5年にジャスコがフォーラスへ業態転換。数少ない「昭和の大分県民自慢」の存在であった大分PARCOも平成23年に撤退。結局残ったのはトキハだけという振り出しに戻ったわけである。
(唯一、頑張っていたフォーラスも、アミュプラザおおいたが開業した2年後に閉店)
まさしく
街なかや 兵どもが 夢の跡
であった。
いま振り返ると、この時代の大分は所謂「新産都文化」の上に、ずっと胡座をかいていたと言っても過言ではなかろう。
※個人的な話だが、パルコ閉店当時に弊社は地下一階にテナントとして出店していたので、閉業セレモニーで店長(野口さんお元気かしら)が挨拶・お辞儀をしてシャッターを下ろすあの儀式の時、僕は店長の後ろでお客さんに向かって一緒にお辞儀をするという立ち位置にいた。ある意味とってもレアな体験で想い出深い…。
平成10年5月に、僕は高校を卒業してしてから20年にわたる県外生活を終え、大分に舞い戻ってきたのだけれども、すでに大分の街なかは、なんとも言えない厭世感に包まれていた。
なにかそのときの状況は、「みんな人のせい」的なものを感じていたのは僕だけだったのだろうか。
そもそも当時の「商店街」という、個々の筋での取り組み自体に限界が見えてきていた。
新しく出来た郊外の大型商業施設は、運営母体がテナントから金を集め、大きな資金で人気タレントを呼んだりと、断続的にいろんなコンテンツを仕掛けていた。
街なかはというと、各々の商店街が筋ごとにいろんなことは仕掛けるけれど、少し的外れだったり、そもそもそれは大きかったり小さかったりはあるけれど、郊外の商業施設に比べると「竹槍で天を突く」ようなものだった。
本来、中心市街地の一番の取り柄であるはずの「非日常感」「ワクワクドキドキ感」は、完全にそのお株を郊外に取られ、街なかはこのままいくと右肩下がりが延々と続き、いずれは消滅するのではないか、と大袈裟ではなく本気で危惧するような状況だった。
そして僕が、大分に帰ってきて真っ先に感じたのが
勿体ない
だった。
転勤族として、それなりに全国の県庁所在地を転々としてきた我が身から言わせてもらうと、大分は決して悲観するような土地ではない。
というよりも、こんなバランスの取れた地方都市は珍しいと断言できる。
確かに上を見たらキリが無いかもしれないけれど、下を見たほうがもっとキリがない。
少なくとも日本の「中の上」以上。
大分という「白地のキャンパス」に絵を描き、塗っていくのは大分人の心、もっと言えば「ウィリングネス」ではなかろうか。
僕は会社が転勤族にしてくれたおかげで、いろんな県庁所在地を転々と会社経費で回らせてもらったけど、最終地点が大分だったことを心から感謝している。
話は戻るが、街がこれからどうなるべきなのか?
当時、僕は一貫して商店街単独だけでは無く、意味ある連携をして、「面」となって行動する必要があると思っていた。
(現在は時代がさらに一周して「面」という捉え方だけでなく、個々の「筋」の魅力がしっかり発信されて、その集合体へと進化しつつある)
しかし、個人の想いなんてちっぽけなもの。
それなりに、もがいてはいるものの、旧態依然とした「新産都」文化なる幻を引きずったまま、あえなく末路を辿るのかと、自分らしくもなく悲観的な想いにもかられつつあったが……。
ほどなくして、街の行方への歴史的な「触媒」となる激震が走ったのである。
(「第6回 「黒船来襲」の顛末 その2」へつづく)
※写真は旧大分駅前の風景(撮影 小野洋之)