先日、地元新聞で2015年国政調査速報値から大分県内の人口動態が発表された。
私の住む国東市は減少率トップで、県下唯一の二桁の人口減少率10.5%という数字が注目された。
全国的にも1920年の調査開始以来初めて総人口の減少(0.7%)が確認され、いよいよこの国が人口減少局面に入ったと言われる。39道府県で人口が減少するなか東京圏はさらに増加し総人口の28.4%が東京圏に集中することになった。また世帯数に関しては過去最多を更新しており、単身世帯の増加傾向は止まりそうもない。
人口の増減に関しては地域においても国においても自然増減と社会増減の二つの要因がある。自然増減は生まれてくる人と死んでいった人の数の差、社会増減は人口移動すなわち転入数と転出数の差であり、人口増減はそれらの和で計算される。また人口動態は高齢化と少子化という二つの要因があり、この二つを時系列の人口バランスのなかで見ていかなければならないという極めて厄介な問題なのだ。
今回はちょっと複雑な話題だ。
いま全国の地方自治体は躍起になって自分のところに移住者を呼び込もうとしている。空き家バンクの取り組みや移住者に対する補助金制度、子育て支援、地域おこし協力隊等々、あの手この手で移住促進をおこない、他所が始めればこっちも取り入れるという具合に、どの自治体もほぼ同じメニューでせめぎ合う綱引き状態になっているように見受けられる。
もちろん移住したいと考えている人たちのために移住しやすい環境や制度を自治体が整備することは大事なことだ。いいと思えることは何でもやったほうがいいと私も思う。だが「こっちの水は甘いぞ」はすなわち「そっちの水は苦いぞ」になりかねない。声の大きいところに、あるいは補助金が多いところに人が集まるようなことでは本末転倒だろう。
社会問題としての人口減少を目先の数字だけで見ていくとたいへんおかしなことになってくる。地域人口を増やすにはどうすればいいか?という各地域の安易な問いの立て方がそもそも間違っているかも知れない。
たとえば、短期的な人口増だけを考えれば移住者を増やすというのが手っ取り早い方法だ。それもこれから子供を産んでくれるであろう若い夫婦や独身女性を選択的に連れてくることが効率的だという答えが出てくる。確かに間違ってはいないだろうけど、私はここで大きな違和感を感じるのだ。なんとも言えない気持ち悪さ。たぶんこの違和感はこの図式の中に人間/女性を道具として見る視点が含まれているからだと思う。
これは人口問題を考えるときにいつもつきまとう問題だ。合計特殊出生率という指標がある。これは一人の女性が生涯に何人の子供を産むかを表した数値である。大雑把に言うとこの数字が2であれば、一組の男女から子供二人が生まれて自然増減はプラスマイナスゼロ、人口は横ばいになる。50年後に総人口が8000万人になると予測されているなか、政府は現在の合計特殊出生率1.4を2まで引き上げ総人口1億人を維持するようにと目標を立てている。
皆さんはどのように感じるだろう。私自身はここでも違和感を感じてしまう。つまり合計特殊出生率という指標も総人口の目標値も数字を掲げた瞬間に本質が隠蔽されるような気がしてならない。
そもそも人口が減るということは悪いことなのだろうか。たぶんいいことでも悪いことでもない、自然なことなのだろう。人口が減るのが悪いという立場は現状の社会のあり方を維持するためには、という前提がある。人口減少が自然なことなら減っていく人口に合わせて社会のあり方を作り変えていくほうが順当だろう。
私の考えは人口が増えるにしても減るにしても国として余計なバイアスをかけないほうがいい、ということだ。戦前の「産めよ、殖やせよ」政策や戦後の産児制限によって歪な人口バランスが生み出され、それが現代にも影響を及ぼし続けていると言われる。ここに至るまでが必ずしも自然な状態ではなかったということだが、かといって再び社会が人口調節しようとすればさらなる歪みが出てくるのではないか。
実際に自分の周りを見渡しても、私たちの世代は結婚していない友人や子供のいない夫婦は多い。そしてそのことが特段に不自然なことと感じられないのは私だけではないだろう。資本主義社会という枠組みがいたるところで限界をむかえつつあるなか、少子化現象はある意味、日本人が集団的、無意識的に選択している調整行動と考えることもできる。
90年台後半にインターネットが普及し始めて20年、私たちはまだネット社会のとば口に立っているに過ぎない。今後ネット社会はますます加速するだろうし、そんな状況下で単身世帯化はますます進み、非婚率は増加し出生数も下がり続けるだろう。そしてこのことは現在少しでもネット社会に浴している人たちには当然予測できているはずだ。
それでも私はわりと楽観的に見ている。人口減少が進行する中で、いずれどこかで底を打って安定する人口と社会の新しい形態が出現するのではないか。もしそうであるならば、少なくなる人口の中でどのようなカタチの幸福な暮らし方ができるかをまず考えるべきだろう。
世界で日本だけが経験することになる超高齢社会。そしてこの先も続く人口減少社会。労働者数が減少し、経済が縮小し、年金制度や社会インフラの維持が困難になってくる前に私たちは仕事と暮らしのカタチを作り変えなければいけないのではないか。そしてそれを先駆けて実現できるのは都市ではなく、最も早い時期に人口減少が顕在化した地方の中山間農村部だと私は考えている。
人が集まるところに人は集まる。これは人の本能に違いない。地方から東京に、県内各地から大分市に、国東半島の場合は中山間部から海岸部に同じような力が働いている。行く先は違っていてもそれぞれに自分がさがしている人に出会える場所を目指しているのだろう。人は常に人を求めている。これは自然な人口移動だと思う。それでも今後、超高齢化する経済縮小化社会の中で水と食料とエネルギーが自給できる生活圏として、中山間農村部の地域共同体を求めあう者同士が出会える場所にしていけるかどうかが大きな鍵になると、私はそう考えている。
冒頭に記した地元国東市の人口減少の記事を受けて自分なりに人口問題を調べてみたが、調べれば調べるほど怖くなってくる。はっきりわかったのはこれから日本が経験することになる超高齢化社会は世界中で誰も経験したことがないということ。自分たち自身で感じて考えて道を選ばなければならないということ。あとはそれが間に合うかどうかだ。