私の自宅のリビングテーブルの上には木製フレームの洒落た砂時計がある。
懇意にしている大川の家具メーカーのショールームで7年前に購入したもので、シンプルなデザインが気に入っている。めったに使うことはないが、砂が落ちきるまでキッカリ30分。娘が小さかった頃は、「じゃ、ゲームで遊ぶのは30分ね。終わったら宿題しなさいよ!」という具合に遊び半分で使っていたのだが、今はもう使われることも無くなって久しい。
あらためて考えてみれば、30分という時間はけっこう中途半端だ。砂が落ちるのを最後までじっと見届けるのは相当の忍耐が必要だ。ほとんど苦行だ。かといって何か用事を始めれば30分はあっというまに過ぎてしまう。
いま私の目の前ですーっと落ちていく砂つぶ。落ちきってしまうまでの30分という時間。そして私たちが生きている日常のなかの生活時間。このふたつは、はたして同じ時間なのだろうか?
時間が今回のテーマだ。
日本人の平均寿命は男性で80年、時間になおすと700,800時間。この砂時計を1,401,600回ひっくり返す計算になる。仮に砂時計をひっくり返すという仕事があったとしたら、生まれてから死ぬまでに砂時計を140万回ひっくり返したら、そろそろ寿命がつきる、というわけだ。……なんとも空しい。
もちろん私たちの身体は知っている、時間はけっしておなじ速度で、直線的に流れて行くものではない、ということを。ある状況下で、多くは肉体的に危機がせまっているときに時間はそれこそ飴のように、“びよーん”と引き延ばされることがある。私にとっては小学校の一年生のときの記憶が鮮明だ。
自転車を買ってもらったばかりで、ようやく一人で走れるようになったころ、自宅前の公道を走っているときにハンドル操作を誤って、深さ1メートルほどの側溝(どぶ川)に突っ込んだ。たぶんパニックになっていてブレーキもかけなかったのだろう。手足や顔に大きな擦り傷はできたものの、幸い大した怪我にはいたらなかったのだが、側溝に落ちていく自分がスローモーションのように記憶されている。それこそ自分の顔面が直下の地面にコマ送りで近づいていく一瞬一瞬を思い出すことができる。不思議と恐怖感はない。ただ時間が引き延ばされていく感覚が今も残っている。おそらく窮地に追い込まれて自分を守るために動物的な本能が起動したのだろう。危険をさけようと、高速で演算する脳、相対化される風景、脳から手足に命令が伝達され、子どもながらにリスクを最少化する反応をした。
しかし、7歳の自分は最後まで自転車をかばっていたのだ。だって初めて買ってもらった新品の自転車だったから。
もしかしたら自分が死ぬ時も同じような感覚になるのかな、と想像したりもする。死に近づいていくにしたがってますます時間が飴のように伸びていって永遠にたどりつかない。そして最後の瞬間に、「オギャー」と生まれ変わっていたりして。それでは輪廻から抜け出せないか。いや、これは私の妄想だ。
個体にとっての身体的な時間、主観的な時間は一定の速度で進みもしないし、直線的でもない。速くなったり、遅くなったり、大きく曲がったり、時には逆行したり、飛び越えたりもする。時間感覚は生物としての自己とそれを取りまく生存環境とのあいだで相対化されたものであるからだ。それに、こういう実感は危機的な状況だけではない。自分がものを考えたり、作ったり、こうして文章を書いたりしている時にもときどき起こる。だから生きるっていうのは面白い。おそらく読者の皆さんもこれに近いなんらかの経験があるだろう。
そして、もうひとつの時間。
制度としての時間。現代社会ではこっちのほうがやっかいだ。ヒトはひとりでは生きられない。(私自身はこれに気づくのが随分遅かったような気がするが……)ヒトは生きるために特定の集団を形成する、それが社会だ。家、学校、会社、村落共同体、国家……その他にもさまざまなサイズの集団があり、そこには必ず他者が存在し、集団内の他者同士がおこなう交換によって、その集団は存続することができる。集団とともに個人も生きのびる。そしてこの集団/社会は必然的に内包する構成員の日常を規定することになる。これがもうひとつの時間だ。
現代社会では時間の裏側にはぴったりとお金が貼り付いている。お金というよりは貨幣経済と言ったほうがいいかも知れない……国家のサイズをはるかに超えた社会だ。私たちは生活の糧を購うためにお金を必要とする。そのお金を得るために私たちは労働力、すなわち自分の持ち時間の一部を差し出すことになる。持ち時間というのは生き物として持たされている有限な時間、生まれてから死にいたるまでの総時間ということだ。
問題なのは、過度に行き過ぎた貨幣経済は生物としての生きる気力を根こそぎ奪ってしまうということだ。それは生き物が持つ身体的な時間感覚を浸食して、その結果、私たちは制度的な時間、つまりは「借りものの時間」のなかで生きることになる。
私たちの会社は2年前から「国東時間(くにさきじかん)」という週休3日制の働き方を導入した。毎週月曜日から木曜日まで4日間出勤して、金土日の3日間はお休みという働き方だ。詳しくは次回の稿で書くつもりだが、4日がオンで3日がオフというわけではない。労働と余暇、オン:オフの関係ではなくて、両方ともオン。3日間は身体的な時間の使い方をしようという試みだ。
私たちが「豊かさ」という言葉を使うとき、お金と表裏一体となった時間と、あるいは身体的な時間と、どちらの時間に属するものであるかは言うまでもない。しかしながらどちらの時間も個人と集団が「生きる」「生き続ける」ということを目的に出発したものであるというところが問題をさらに難しくしているのだ。現代に生きる私たちはこの二つの時間を同時に生きなければならないらしい。
たとえば、ある晴れた日。
朝はやく起きて、やることも決まってなくて、お茶を入れて飲みながら、さあ今日はなにをしようか、と青空を見上げる。そして、深く息をつく。そんな時間が私たちにとっての「豊かな時間」であるはずだ。しかし世間はそれを簡単には許してくれないようだ。
とりあえず、いまの私たちに出来ることは、私たちの時間にぴたっと貼り付いたまま、なかなか離れない「お金」を少しずつでも引き剥がすことからはじめるしかないのだろう。「自分たちの時間」をとりもどすために。