90歳を超える私のカフェ友達(男性)が亡くなって、もうすぐ1年になります。
会うたびに、コーヒーを飲みながら、戦前、松原公園の映画館で見た喜劇映画のことなど、楽しそうに語ってくれました。
「女優歌劇」(「少女歌劇」とも)で有名だった遊園地、鶴見園のこともよく話していました。
小学生の頃、母親の財布からお金をくすね、一人で遊びに行ったのだそうです。おそらくラインダンスのことなのでしょうが、女性たちが足を高く上げるのを、最前列で熱心に見ていたのだと、ニヤニヤしながら語ってくれました。
もうそんな戦前の話を、直接聞くことはできなくなりました。
鶴見園とは、今のトキハインダストリー鶴見園店やその裏手一帯に、古くからあった大きな遊園地です。
戦後もしばらく開園していたので、70歳の私のような世代の人なら、子供会などで行った思い出があるかもしれません。
もともとは、広島県呉市出身の松本勝太郎という鉄道工事などで成功した人が、4万1千坪もの土地を購入し、大庭園作りに着工したのが大正5年(1916)のこと。大正14年(1925)に遊園地が竣工し、翌15年2月14日に開園しました。
庭園と温泉、それに加えて、宝塚少女歌劇をまねた「女優歌劇」を毎日午後上演して、お客さんを集めていました。
今回掲載した絵葉書は、専属女優さんたちが、園内のプールに勢揃いした様子です。こんなにたくさんいたのですね。
昭和10年(1935)の暑中見舞いとして、実際に差し出されたものなので、その頃の撮影かもしれません。
いったいどんな演目が、上演されていたのでしょうか。
たとえば、「昭和6年11月5日まで」と上演期間が書かれたプログラムのチラシには、神話歌劇「海彦山彦」、レビュー「祖国を愛す」、「秋の踊り」、歌劇「笑ひ男」、喜歌劇「ジャズの岩戸」と、5つの演目が記載されています。どんなものだったのか、ぜひぜひ、見てみたいものです。できれば、かぶりつきで!
女優の中では、男装の麗人、澤操(さわ・みさお)という人が人気を集めていたと思われます。
20年以上前に発行された大分みらい信用金庫80周年記念誌の中に、栄光園の小郷穆子さん(作家)が「私には、ちゃんとごひいきがあった。(中略)細面の美しい人で、声もきれいな人だった」と澤さんの思い出を記しています。
あらためて、どんな遊園地だったかを見てみましょう。
「九州一の大遊園地」「温泉と歌劇の 鶴見園御案内」という当時のチラシを眺めてみると、「終日の御清遊」、つまり「一日中のんびりと過ごす」のにぴったりな、設備とサービスが整っています、とPRしています。
花見の名所でもあったので、桜をはじめさまざまな木々が植わった広々とした庭を散歩したり、午後の女優歌劇はもちろんですが、午前中は講談・落語・奇術といった出し物を楽しんだり……。
大浴場・むし湯・滝湯・砂湯・家族風呂などさまざまな温泉施設、玉突きやピンポンの娯楽室、宴会もできる食堂、と施設は盛りだくさんだったようです。
多くの人を楽しませた鶴見園ですが、戦争が激しくなった昭和18年(1943)に閉鎖されたそうです。そして、昭和20年8月が終戦。
その1年後の、ちょっと驚くようなエピソードを紹介して、筆を置きます。
『別府大学開学ものがたり』という本に、終戦翌年の昭和21年(1946)5月15日の、別府女学院(1年後に別府女子専門学校)開学式の記念写真が掲載されています。
鶴見園が校舎となるはずだったので、大劇場の前で撮影され、希望にあふれた女子学生たちの晴れやかな顔が並んでいます。
ところが、そのわずか2、3週間のち、鶴見園が進駐軍に接収されるため、現在地(華北交通の療養所だったそうです)に移動することに。
鶴見園は別府大学の幻のキャンパスでもあった、というわけです。
※メイン画像説明
鶴見園のプールに勢揃いした専属女優たち