前回に続き、油屋熊八に登場していただきましょう。亀の井ホテル亀の井バスなどを創業し、さらに別府観光の父、大分県観光の先覚者、などと尊敬されている有名人です。
大阪で株式仲買人をしていた若い頃は、株を買い占めて前代未聞の株価上昇を仕掛けた、などという話も前回紹介しました。そんな激しい一面を持った人物ですが、一方で、大変なロマンチストではなかったかと思われるエピソードを披露します。

油屋熊八は昭和10年(1935)3月に享年73歳で亡くなります。その15年後の昭和25年、関係者が勢揃いして「油屋熊八翁をしのぶ座談会」が開かれ、雑誌に掲載されています。
座談会には出ていなかったのですが、「紙上出席」という形で亀川の国立病院長の高安慎一氏が、油屋熊八が意外な夢を持っていたことを語っています。

「あるとき油屋さん、あなたの将来の御希望は?ときいたら、あの城島原(きじまばる)に石造りのうちを作り、雪のチラチラ降る夜、マントルピースに火をたきながら、チビリチビリとウイスキーが飲んでみたいですよ……と言われたことを、今でもよく思い出します」

若い頃は株式仲買人として、一攫千金(いっかくせんきん)を夢見て奮闘し、後半生は別府で旅館業とバス会社経営、そして別府宣伝・大分県宣伝に、やはり多忙な日々を過ごした人物です。その人が、城島原、もちろん城島高原のことですが、寂しい高原の冬をひとりっきりで静かに静かに過ごしたい、とあこがれていた。なんとも、ジーンと来るような、切ないような話ではないでしょうか。
あらためてですが、油屋熊八はお酒は飲めませんでした。
別府とともに、由布院やくじゅうを愛した人ですが、城島高原も大好きだったのです。

ところで、生前の油屋熊八とは直接関係ないですが、戦後しばらく、亀の井ホテルは城島高原で「高原ホテル」を経営しています。
同じ座談会で、亀の井ホテルの女性社長、曽根キリ氏が「故人は生前特に別府の奥の院として、城島原と由布院を愛されましたので」と、高原ホテル経営などの抱負を語っています。

今回掲載した写真がその高原ホテルなのですが、ぜひ泊まってみたくなるような、おしゃれな建て物です。
ところが、これは「鐘紡別府種牧場事務所」の絵葉書なのです。いったいどういうことかというと、鐘紡(かねぼう)は昭和10年ごろから、城島高原で緬羊牧場を始めました。ヒツジが高原に群れている様子は、外国の風景のようだったと言います。
鐘紡の誘致には、油屋熊八や石垣村村長の熊谷頼太郎が尽力。さらに県知事や総務部長も一肌脱いだと戦前の新聞記事に書かれています。
そして、昭和11年8月ごろ、ハイカラな牧場事務所が落成しました。その建て物が戦後は、亀の井ホテル経営の高原ホテルになるのです。残念ながら、いつも利用客がいるというわけではなく、しだいに廃れていったそうです。

さて、最後に余計な話を付け加えます。
筆者が大学生の夏休み、夜、友人宅で麻雀をしていると、「お化け屋敷を見に行こう」という話になり、自動車で城島高原へ。遊園地のほうではなく、道路より山手にあったと思いますが、当時「メリーさんの館」と呼ばれていた廃墟を探検しました。まっくらな中で割れたガラスが床に散乱していたことだけが、印象に残っています。
勝手に入ってしまったのは、まずかったかもしれませんが、50年も昔のことなので、時効ということでお許し願います。

※「鐘紡別府種牧場御案内」という当時のパンフレットによると、昭和9年(1934)8月に着手し、11年8月にさまざまな施設が完成した。牧場用地の総面積は267町歩(約264ヘクタール)。建物は牧場事務所1、羊舎6、兎舎8、社宅6など31棟があった。飼育数(昭和12年7月末現在)は緬羊がコリデール種(704頭)を中心に5種で合計1132頭、ウサギは純英アンゴラ種5075頭ほか合計5391頭。

※メイン画像
昭和11年に落成した「鐘紡別府種牧場事務所」。戦後は亀の井ホテル経営の「高原ホテル」となった。

※参考サイト
■カネボウの歴史
https://www.kracie.co.jp/company/info/history/
鐘紡(カネボウ)は現在のクラシエ株式会社の前身です。

■現在、同地で事業展開をしている株式会社城島高原オペレーションズ。
https://www.kijimakogen.jp

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小野 弘
おの・ひろし:1953年、別府生まれ。別府の絵葉書収集家、別府の歴史愛好家。今日新聞記者時代に「懐かしの別府ものがたり」を長期連載。現在も公民館で講演するなど活動中。