ずっと別荘の話ばかりしてきましたので、今回は少し目先を変え、油屋熊八(あぶらや・くまはち/1863~1935)を取り上げます。
亀の井ホテルや亀の井バスを創業し、「別府観光の父」と称えられる有名人です。突飛なアイデアで、別府宣伝に奮闘した愉快なエピソードは、皆さんもご存じでしょう。せっかくなので、今まであまり語られてこなかったことを紹介します。このほど、新一万円札の顔となった大実業家、渋沢栄一とのつながりにも触れます。
油屋熊八の生涯はまだまだ謎ばかりなのですが、30歳ごろから数年間、大阪で株式仲買人をしました。東京でも活動しました。
とんでもない大勝負に打って出たこともあり、大阪株式取引所での「油屋熊八の大株買い占め事件」という話もあるほどです。
内容をかいつまんで紹介すると、明治28年(1895)から29年にかけ、好景気到来と見て、買って買って買い抜き、全株数1万2千株のうち、4、5千株を買い占めて、前代未聞の高値まで引きずり上げてしまったそうです。(昭和4年『株屋町五十年と算盤哲学』)
この世界のことはよく分かりませんが、若い頃は、相当に「激しい」人物だったのです。
最終的に、勝負に敗れてしまいます。莫大な利益を手にしたとも言われますが、最後はスッテンテンになり、心機一転、アメリカに渡り数年間を過ごしています。
こんな経験をしたのですから、よほど肚(はら)の座った人物だったのでは、と想像します。
帰国して11年、明治44年(1911)10月1日に、亀の井旅館を創業します。満48歳の時でした。
資金不足だったのでしょう、最初は、1、2階ともに2間しかない小さな家を借りて営業しました。貸してくれたのは、大分市出身の洋画家として知られる佐藤敬のお父さん、佐藤通という人でした。
ところが、大正時代の間には別府を代表する宿に成長してゆくのです。考えられないような話です。その謎を少しでも解明してみたいと思います。
郷土史の研究論文で知ったことですが、若い頃の油屋熊八は、渋沢栄一が主宰する経済人らの集まりに参加していました。また、後のことですが、亀の井旅館を創業してまもない、大正3年(1914)6月、渋沢栄一は亀の井を訪れています。
6日に来て4泊し、2日目は油屋熊八の案内で夫婦で砂湯も楽しみ、4日目は別府の小学校を会場に講演も行っています。
2人の間に、個人的なつながりがあったのではないかと思います。渋沢栄一が利用した宿ということで、亀の井は評判を高めることができたのです。
あわせて、貴族や皇族が泊まっていたことも紹介します。
侯爵で、紀州徳川家の第15代当主、徳川頼倫(とくがわ・よりみち)という方は、早くからひいきにしてくれました。
大正12年(1923)8月の新聞を読むと、今まで5回宿泊しており、油屋熊八からさんざん勧められるので、今回は由布院の亀の井別荘で過ごすつもりだと、記者に答えています。
どういうご縁だったのかわかりませんが、徳川侯から大変気に入られていたようです。
もちろん、徳川侯のご利用も亀の井の評判を高めたのです。
また、昭和天皇の弟君、高松宮宣仁(たかまつのみや・のぶひと)親王とは昭和初めに、久住高原をご案内して以来の間柄でした。海軍軍人だったので、軍艦が別府に入港するたびに亀の井を訪れています。
昭和9年(1934)『高松宮日記』には、「亀ノ井ノオヤヂ(亀の井の親父)はどうしてるか」と大分県知事にたずねたという話が出てきます。おそらく、県知事はびっくりしたでしょう。なぜ一介の宿屋の主人が宮様と親しいのか、と。
油屋熊八という人は、皇族・貴族や大物実業家など、トップクラスの人達の心をつかむ、特別な能力を持っていたようです。小さな借家でスタートした旅館なのですが、著名な方々がお泊まりになる宿だと大いに評判になり、PRにつながったわけでしょう。
もちろん、それだけで亀の井旅館が大発展していった理由を十分には説明できないでしょうが、平凡な経営者ではなかったのだと思います。
※渋沢栄一とのつながりについて、『別府史談』第三十・三十一合併号の秦広之氏「油屋熊八を深く知るための資料について」からご教示いただきました。
(メイン画像)
創業まもない頃の亀の井旅館