別府で別荘といえば、やはり、白蓮(びゃくれん)ゆかりの「赤銅御殿(あかがねごてん)」が有名です。

白蓮の本名は、柳原燁子(やなぎわら・あきこ/1885〜1967)で、大正天皇のいとこにあたります。
明治44年(1911)、25歳の時に、50歳の炭鉱主と結婚させられます。相手は、連載1回目に登場した麻生太吉と同じ筑豊の炭鉱王、伊藤伝右衛門(いとう・でんえもん/1861〜1947)でした。

伝右衛門は、若い妻のために、大正5年(1916)から2年余りかけて、豪華な別荘を築きました。
残念ながら、昭和54年(1979)に解体され、べっぷアリーナ裏の高級住宅地に変わっていますが、今でも「赤銅御殿はもったいなかった」と惜しむ声が聞かれるほどです。
もともと「伊藤別荘」という名前なのです。戦後、昭和29年(1954)から、首藤克人氏が「ホテル赤銅御殿」を経営したので、そちらの名前が定着したようです。首藤氏はパチンコ業で成功し、のちに別府商工会議所会頭もつとめました。
「若い妻のために」と書きましたが、それだけではないでしょう。同業者の麻生太吉にならい、「太吉さんが別府に別荘をつくったのなら、ぜひワシも」と考えたのだと思います。当時の炭鉱主たちは、みな別府に別荘を構えたのです。

さて、白蓮といえば、年下の若い編集者、宮崎龍介(みやざき・りゅうすけ)との駆け落ちは、世間を大いに騒がせました。大正10年(1921)年10月の「白蓮事件」です。
ふたりの出会いは前年の1月末、この別荘でした。白蓮が雑誌に発表した戯曲を、単行本にすることや舞台上演について打ち合わせるため、宮崎龍介が東京からやって来たのです。
さっそく意気投合し、もちろん白蓮が引き留めたのでしょうが、滞在を延ばし、2晩も泊まったようです。

もうひとり、この別荘ゆかりの人物がいます。同じ短歌の先生に師事していた、九条武子(くじょう・たけこ)と京都で初めて会い、急接近したのもこの頃なのです。
九条武子は西本願寺の法主の娘という家柄でした。新婚旅行でヨーロッパへ出かけましたが、夫はそのまま英国に長期滞在することになり、10年間も事実上の別居生活を送りました。
愛のない結婚生活を強いられた白蓮と、同じ境遇、同じ短歌の友。九条武子は大正10年に少なくとも2度、別府に来て伊藤別荘を訪ねています。おそらく寝る時間も惜しんで語り合い、時には少女のようにはしゃぎ合ったりしたことでしょう。

さらにいうと、「大正三美人」という言葉があります。白蓮も武子も、その「三美人」に数えられているのです。大正時代を代表する、美貌の持ち主ふたりが、この場所で過ごした時があったなんて、何だかすごい話です。

そんな思い出深い場所に、白蓮がもう一度姿を見せたのは、33年後の昭和29年9月でした。ホテル赤銅御殿の歌碑除幕式に招かれたのです。
一切を捨て、宮崎龍介との結婚生活に飛び込んだわけですから、戻ることは絶対にないはずでした。長い歳月を経て、再びその場所を訪れたことへの感慨を、次のように詠んでいます。

再びは来じと思ひし窓に立ち 庭の木立に秋の声きく

この年以降も、女将で歌人の首藤静香さんにより、毎年のように別府での歌会に招待されたものでした。

ホテルの敷地に建立されていた白蓮の歌碑は、現在、分譲地の公園の一角に静かに残されています。恋に生きた女性にふさわしく、初期の代表作とされる情熱的な短歌が刻まれています。

※伊藤別荘の建設年は、資料によって違います。「ホテル赤銅御殿」のパンフレットを参考にしました。
※「大正三美人」の3人目は、江木欣々(きんきん)、または林きむ子、とされています。

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赤銅御殿(あかがねごてん)と呼ばれる「伊藤別荘」はのちに、海軍軍人の宿泊施設「呉(くれ)水交社(すいこうしゃ)別府集会所」となりました

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小野 弘
おの・ひろし:1953年、別府生まれ。別府の絵葉書収集家、別府の歴史愛好家。今日新聞記者時代に「懐かしの別府ものがたり」を長期連載。現在も公民館で講演するなど活動中。