白い仏舎利塔がそびえる実相寺山。その北のふもとに、「新別府」の住宅地があります。
少し前までは、企業の保養所や大きな個人宅しかない、特別な雰囲気の「お屋敷町」でした。
それもそのはず、もとは、大正3年(1914)から開発された、高級分譲地だったのです。

今回はその開発を手がけた、「新別府温泉土地株式会社」社長の、千寿吉彦(せんじゅ・よしひこ/1868〜1930)に登場してもらいましょう。
竹田出身の彼は、東京で土木学を修めたのち、鉄道建設事業などで成功し、巨万の富を得たといいます。

ところで、今や大勢の観光客が詰めかける人気スポット「海地獄」。何と、その新別府の分譲地に温泉を引くために、千寿吉彦が購入したものだったのです。
昔は熱湯があふれて田んぼに流れ込んで困る、などといわれ、地獄はむしろ厄介者あつかいだったそうです。地獄が観光資源となる日が来るとは、当時の人は思いも寄らなかったのでしょう。村有地だった海地獄を、地元有力者2人の手を経て、明治45年(1912)に買い取ったそうです。

さて、広大な土地を造成した分譲地は、「1区画300坪」もの広さ、もちろん「温泉付き」です。鉄道開通で便利になった「地の利」、さらに「眺望」をセールスポイントに、「理想的温泉別荘地」とPRしました。

言うまでもありませんが、別府は山から海へとなだらかに下る「扇状地」です。傾斜を生かし、さらに縦と横に道路をめぐらすことで、どの宅地からも別府湾と、背後の鶴見岳の景色が、両方とも楽しめるようにしたのです。ぜいたくな話です。

さて、前回の連載でお話ししたとおり、のちに昭和天皇の妃(きさき)となる、良子女王(ながこじょおう)が大正12年(1923)5月、家族で別府を訪問されました。
23日午前中、おしのびで新別府の「ご料地」に足を運ばれました。結局は建たなかったのですが、別荘が計画されていました。

当時の新聞から、案内役をつとめた千寿吉彦のインタビューを、おおまかに紹介します。「殿下」というのは、父君の久邇宮邦彦王(くにのみや・くによしおう)のことです。
「殿下がおととしお立ち寄りになって(ご料地の)庭木が少ないから植えろとおっしゃったので、(その後)私がわからないながらも植えたら、『なかなかいいね』とおっしゃった。(敷地が)狭いように思いますがと申し上げたら、『結構だ。これ以上はもったいない。いつ来ても景色はいいね。きょうは雨で残念だ』と申された」と語っています。
さらに、建築中の久邇宮の本邸が竣工したら、ご料地の別荘に取りかかられるのではないか、と推測もしています。

それにしても、なぜ「ご料地」があったのでしょうか。
別府のローカル紙、今日新聞の連載「懐かしの別府ものがたり」が15年前にこのことを書いています。
孫の千寿健夫海地獄社長(故人)によると、まず2区画を献上し、さらに2区画を半額で提供したようです。きっかけは「久邇宮の父と祖父(千寿吉彦のこと)が、身分の上下はあっても非常に親しかった」ことだそうです。そんな事情があったわけです。(実はこの連載は、私が記者時代に担当しました)

おしまいに、「新別府温泉経営地」という、各区画の購入者名が入った地図があります。圧倒的に東京在住者が多く、数えてみると30数人もいます。会社経営者や資産家が多いようです。東京在住の、千寿吉彦の幅広い交友関係を物語っているように思われます。

※千寿吉彦の生没年、海地獄の取得年などは『大分県歴史人物事典』(大分合同新聞社刊)を参照しました。

(メイン画像)
造成中の新別府の分譲地。大正4年(1915)ごろでしょうか

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小野 弘
おの・ひろし:1953年、別府生まれ。別府の絵葉書収集家、別府の歴史愛好家。今日新聞記者時代に「懐かしの別府ものがたり」を長期連載。現在も公民館で講演するなど活動中。