[第60回 情報の民主化は格差社会を無くせるのか]
【問い】
情報の民主化が進んでいるのは「インターネットのおかげ」と言われてますが、将来的には情報格差が縮小することで経済格差は無くなるのでしょうか?
【方向性】
経済格差は無くなりません。情報の民主化は「文字」と「言語」の発明がルーツだとしたら、インターネットの有無に関係なく昔からありました。それにも関わらず当時から経済格差が生じている理由は、それぞれが持つ「好奇心」にこそ格差があるからだ。
【解説】
■情報の「価値」を決めるのは何か
インターネットやスマホの普及により情報の民主化が進んでいます。
これまで一部の役割や職種を持つ人しかアクセスできなかった特別な情報も簡単にアクセスしやすくなりました。さらにSNSの普及により誰でも自由に情報を発信することも可能になりました。裏を返せば、これまで優位な情報を持っていた人と、一般の人が持っている情報との変わりばえがなくなり、結果的に情報の格差が縮小していったのです。
ただし情報格差が縮小したことで恩恵を得ている人たちには、その前提として「意思」があります。
自分で情報を集める目的があり、情報を収集し、その情報の真偽を確かめ、その情報をベースに新たな意思決定をして、アクションを起こすことで、恩恵を得るのです。
つまり「意思」を持たない人は、情報の民主化のメリットはあまり受けていないと考えられます。
その理由は簡単です。
自分の都合とタイミングで、自分が必要と思う情報を、誰も提供してくれないからです。
仮に、そのような状況を作れる人は、自分の意思で初動を起こし、必要な情報が集まる仕組みを日々研究しています。情報の価値はタイミングと、受け取る本人の判断力によります。どんなに優れた情報でも相手が興味を示さない、相手が自分にとって必要だと思わない限り、単なる雑音になってしまうのです。
■マーケティング思考による「価値」とは
この議論はマーケティングにおける価値の考え方に似ています。
商品の価値を決めるのは、提供する企業ではありません。対価を払う顧客です。
企業が優れた商品を作り顧客に提供しても、その顧客が価値を感じなければ商売は成り立ちません。顧客は何かを必要としている、何かを達成したいが出来ないと感じている、あるいはもっと楽に何かをこなしたい…、そう思っているのです。
私の著書である『実践ジョブ理論』では、そのような概念を「ジョブ」と捉え、顧客が商品を購買する理由は一定の「ジョブ」を解決するためだと説明しました。つまり商品とは、顧客の問題を解決する「何か」と定義できるのです。顧客が問題を抱えているのであれば、その問題を解決する、あるいは手助けすることが商品であり、タイミングよく供給できなければ商売は成り立たない。
戦後、焼野原から始まった日本の経済は全てが不足状態でした。企業はマーケティング分析などすることなく、不足していると思われる様々な部分を商品化して、顧客に提供しました。当時は、企業が提供する商品は、間違いなく「顧客の不足を補う役割」を果たしていたのです。
経済が復興すると、今度は欧米の情報が国内に入ってきて、憧れを持つ日本人が増大しました。人口爆発も相成り、日本企業の多くは欧米を模倣する商品を提供し、商売を拡大させていきました。
経済がひととおり発展し、日本人の多くが諸外国のトップクラスと同様の生活水準になった頃、商売にとって肝心な「不」が無くなってしまったのです。
そこで開発された手法が「あったらいいな」の提供です。
「不」を持たないプラスマイナスゼロの状態の顧客に対し、より良い世界を提案することができれば、現状とその世界に対してギャップ(問題)が生じます。「あったらいいな」の提供は、欲求を創造喚起し、問題意識を発生させる手法なのです。
しかし、この取り組みには莫大な認知コストが必要です。
基本的に現状に満足する顧客は、自分から積極的に何かを求めることが無いので、企業側から顧客にアプローチする必要があります。コミュニケーションを行うには、コストがかかるのです。
■情報の民主化の歴史を振り返る
話を情報の民主化に戻しましょう。
実は情報の民主化はインターネットによって始まったわけではありません。既に昔から始まっていたのです。
それは「文字」の発明であり、「印刷」の発明です。
インターネットの歴史は、1960年代に複数のネットワークを相互接続するための技術研究からスタートし、本格的な普及は1990年代後半から始まりました。
一方で書籍の普及は奈良時代(710年から794年)以降で、当時中国から文化の伝来により漢字文化が根付き、書物や経典が広がったことに端を発します。当時の書物は貴重品であり、書物の複製や普及は平安時代(794年から1185年)から始まりました。平安時代後期には、貴族や僧侶たちによる書写文化が盛んに行われ多くの書物が作られています。
近代的な書籍の普及は江戸時代(1603年から1869年)の出版文化の発展によります。江戸時代は木版印刷技術や活版印刷技術が進歩し、書籍の大量生産が可能になりました。娯楽を含め、庶民が情報を自由に見られるようになったのはこの頃からです。ただし当時は、1年間に得られる平均的な文字情報は、新聞紙面1〜2ページ分程度と言われたぐらいで、物量的には圧倒的に少ないものでした。
現在は、アナログメディア以外にWebなどデジタル媒体を通じて膨大な文字情報が氾濫するようになっています。国内では年間に十数万から数十万程度の書籍や専門書、雑誌等が出版されている。新聞やネット記事など、とにもかくにも情報があふれています。
ところが、それにも関わらず「情報格差」は起きているのです。
■「情報格差」は「好奇心格差」
その理由は何でしょうか。
私はひとつの仮説を強く感じています。
それは「好奇心」の格差です。
一般的に「好奇心」は、年齢が若い時に高く、年齢を重ねるうちに徐々に減少していくものの、高齢者になると再び高くなるという傾向があります。
このように「若い人の好奇心は高い」と思われているのですが、日本人に限って言えば「好奇心」の高い若者の母数が少ないのです。
教育社会学者の舞田敏彦教授が、OECD国際成人力調査の生データを独自分析された結果があります。
その調査では、各国の20歳から65歳の大人に「新しいことを学ぶのは好きですか?」という共通の質問をして、その結果を分析しています。
例えば日本とスウェーデンを比較した時、若年層の知的好奇心は高く、年齢と反比例して好奇心が減少する様子が分析されました。
ところが、ここで衝撃的な事実が判明したのです。それは、日本人の20歳の「好奇心」のレベルと、スウェーデン人の65歳の「好奇心」のレベルが同じだったという結果です。
肌感覚の若者、特にZ世代に「やる気の無さ」を感じている方も多いと思います。これには「好奇心の格差」が影響していると考えられるのです。
星新一の短編小説『盗賊会社』の中の一編『あるエリートたち』では、新しいゲームを開発するために選抜されたエリート社員の話があります。そこでは、気候の良い重役用の保養施設にエリートを閉じ込め、仕事をさせずに暇な時間を与えたところ、あまりにも暇を持て余すため何やら遊びを考え始め、気が付くと時間を忘れてゲーム作りに没頭していました。会社の狙いは、ゲーム開発をエリートにさせることだったのです。
■「情報格差社会」を解消するために必要なこと
親や教師など、何事も他人から言われて育ってきた人間は、自分から率先して「疑問」を持つことをしません。言われたことを、指示された範囲内で取り組むだけで、余計な情報にアクセスしようとしません。
一方、自ら「疑問」を立てる人間は、その答えを探しだし、自分で考え続けます。そこからひとつの疑問が明らかになれば、再び別の疑問、あるいはその疑問を深掘りし、止まることなく考え続けるのです。その情報量も、年齢に比例して膨大になってきます。
私は子どもの頃、暗くなっても近所の山で遊んでいました。ある時、大きな穴をひたすら掘り続け、どれだけ深く掘れるかを楽しみました。建設現場を観察して、どうやったら楽に効率的に穴を掘れるかも観察し、そこで考えたアイデアを試してみました。
意味もなく遊び、没頭する中で、自然の原理を理解して、それらを調べ、様々な方法で先人が体系化している概念があることを知りました。そこから役に立つことも、全く役に立たないことも知りました。
当時はロクに遊ぶものが無かったからかもしれませんが、何かに興味を持ち、行動していくことで、「知識」を「知恵」に変換していったのです。
Z世代をはじめとする若者たちが哀れだと思うのは、既に満たされていると「勘違い」していることにあるかもしれません。「2次情報」で得るだけでは、全てを理解したことにはなりません。行動することで世界が広がり、視点が変わるのです。
「情報格差社会」と他人のせいにせず、自分で問いを立て、楽しみながら答えを探す。
それが出来ればどの世界でも重宝される人材になれるでしょう。