第36回 まことの花
【問い】
東京オリンピックは終了しましたが、Covit-19に対して日本は感染者も死者も他国と比較して少ない状況が続いています。しかし組織で何かを意思決定して、不安定な環境を進む取り組みは、世界を見渡しても明らかに後進国であることが露呈されました。この一年、ビジネス環境ではDX(デジタルトランスフォーメーション)と言いながらも、世界と比較したら日本はいかに遅れを取っているのか、愕然としているのではないでしょうか。少なくともそのような時、個人としてはどのようなマインドでのぞめばよいのでしょう。
【方向性】
室町時代の能役者である世阿弥は、「風姿花伝」の中で、その時だけの「時分の花」について整理しています。人の能力を花に捉え、ほんのひとときだけ「誠の花」が咲くと説いています。
自分の年齢や、これまで取り組んできたことを整理しながら、10年に1度のペースで訪れるであろう劇的な変化に対し、自分から進んでブラッシュアップするマインドを持ちながら、気楽に過ごすことがポイントだと思います。
【解説】
■テレワークがもたらす二極化
働き方改革にCPVIT-19の影響も重なり、テレワークという自宅待機が定常化しました。オフィスワークと違い、仕事の判断や手法に疑問を感じた際に「ちょっとこれいいですか?」的なフランクな相談がWebツールで出来る人は、そもそもリアルでも仕事が出来ていた人でしょう。
一方、本来仕事ができなかった人からすると、バーチャル環境下でITツールを使った質問などはそもそも難しいかもしれません。自分が聞きたいことや確認したいことを「言語化」できないため、テキストでのコミュニケーションが出来ないのです。その結果、積み重なる孤独や、なんとも言えない悶々感を感じて仕事も進まず、気がついたら与えられる仕事も減り、不安ばかりが増加して時間が余っている状況にあると伺い知れます。
そんな時は、あまり真剣に捉えず「釣りバカ日誌」の浜ちゃんのように「ラッキー♪」と捉えるのはいかがでしょう? もちろん、そうはいかないのが日本人です。結果的にテレワークの生産性は二極化しています。出来る人と出来ない人がいて、各種統計データでは去年の生産性よりも平均値は下がっています。出来る人が一部で、出来ていない人が多いことが、その証左でしょう。実際、複数の企業組織を観察していて、如実に二極化傾向を感じます。
テレワークの導入とともに、マネジメント陣も「成果重視」の主張を強めています。
しかし、社員の成果を明確に言語化しておらず、これから取り組もうとしても、そもそも出来るマネジメントが圧倒的に不足しているのです。そのため、未だに成果に関係なく「どれだけ時間を使ったか」で給料が乱高下する、摩訶不思議な仕組みが疑うことなく適用されているのです。
さらに、ここ数年は「時短」という概念が一人歩きしています。
「仕事が出来ない人」は仕事を終わらせることがないまま、たとえ成果を出していなくとも、自らの権利を主張しながら「帰ります!」と言って帰路につくのです。この行動に対して他の社員は強く言えないものの、内心は「えっ?」と思っているのではないでしょうか。
たとえ自分ひとりで解決するのが困難な仕事でも、勤務時間に関係なく努力を続け、果敢に取り組む中で要領を得て、ブラッシュアップしていくのが本来の姿です。しかし、そのようなロジックや正論を口にすると、現在はハラスメントになってしまう恐れがあります。迂闊に口を出せないマネジメントが増加しているのです。おかしな社会になってしまったなと、私は思います。
昨今の日本企業が求める創造的な仕事の成果は、集中して取り組んだからといって必ずしも成果に繋がるものではありません。生活していくなかでのふとした瞬間にアイデアが浮かんだり、家族との会話の中から閃いたりすることもあり、決して仕事に集中している時だけ成果が出るものでは無いのです。
それなのに社員という「カタ」にハマった人たちの多くは本質に気づくことなく、悶々とした時間との格闘を続けているのです。
■ジョブ型雇用の定着に伴う不安
ジョブ型雇用が、ようやく日本でも注目されつつあります。
欧米では現場を切り盛りする部長や統括マネジメントに相当する人が、「自分たちの仕事の成果を上げるためには、どんな能力を持つ人材が必要か」を先に定義します。
そこから能力や経験を有する人を探していき、しかも自分から応募をかけ、信用のある人達から推薦を受けて面接や評価を行います。推薦人からは「何か求める能力を持っているか」「経験や実績を有しているか」等を調べ、自分でウラを取っていくのです。
つまり採用する前から仕事があり、そこに必要なジョブのスペックが存在するのです。
当然のことながら、想定していた能力がないと判断すれば契約を打ち切るという流れになります。それでも日本と違って雇用に関するルールも異なるため、たとえクビになっても同様のジョブスペックを求める企業が存在し、私たちが心配するほど転職に苦労しません。
このような欧米式のジョブ型雇用を日本で完全に採用することは難しいでしょう。
しかし従来どおりに人事部が新卒学生を一括採用し、新入社員教育を経て各部署へ配属するシステムのままでは、変化の激しい将来に対応できないのは目に見えています。多くの経営者や人事担当者も、このことに危機意識を持っているはずです。
雇用の形態がリアルからテレワークに移行しても、テレワークで成果を出せる人の能力は異なります。
しかし十分な教育をすることなく、満足のいく環境も提供せずに仕事を切り替えたとしても、かなり無理が生じてきます。たとえ企業が「柔軟で多様な働き方を提供している」とスローガンを掲げていても、組織内部は依然としてアップアップしているのが実態です。
それでもITの使い方に関して20代は優位です。生まれたときからスマホが当たり前の環境で育ち、学生時代から自由にIT機器を使いこなし、実社会でも何の不便も感じないでしょう。
一方で30代後半からは意識的にITを使う取り組みをしなければ難しいと思われます。50歳代に至っては仕事の経験はあるものの体力や思考に衰えがあり、急激な適応に不安を抱いてしまいます。
■「時分の花」から「まことの花」へ
世阿弥は「風姿花伝」の中で、人間の成長を花の成長に例えて「時分の花」と「まことの花」とに分けて説明しています。
「時分の花」とは、若い生命が持つ鮮やかで魅力的な花で、誰もが通過します。これは若さ故の見た目の美しさであり、ここから謙虚に、真面目に取り組み、もがき苦しみながら努力を続けることが寛容だと説いています。
30代後半になると経験と知識が身につき、人生の勝負を賭ける時が到来します。この時に本気で取り組み、「自分の花」を咲かせてみせます。40代半ばには体力や知力が衰え始めるため、自分が活躍するのではなく、若い世代をフォローしながら、自分にふさわしい花を咲かせていくのです。
このような取り組みを経て、ようやく50代半ばに「まことの花」が咲くのです。たとえ枯れ木になったとしても、ひそやかに咲き続けている花。自分という一人の人間だけが持つ本質的な花といえます。
現在は10年に1度のサイクルで急激な環境変化が起きています。
この変化に対して、幸いにも適応している人はそれに甘んじることなく、次の10年やその先の自分を創造しながら謙虚に能力をブラッシュアップしていくべきです。
一方、たまたま変化に対応できていない人は、過去の行動を振り返り、これまで努力していなかったことを素直に受け止め、再びゼロから学び始める覚悟を持つことです。この学びを続けることで少しずつ環境に適応していけば、気がつけばすっかり新しい変化も受け入れられる体質になっているかもしれません。
これからの時代は、単に言われたことを「待つ姿勢」ではなく、自分で考えて「動く姿勢」に重きを置かなければ、困難と不安の連続でしょう。
全てを自分でコントロールすることは不可能だとしても、好きなくとも自分のことだけでもコントロールする意思があれば、随分と楽な生き方になると思います。